かぎラン

2000字くらいの、読んで面白い記事を書きたい。

押印することの意味

認印が押してあるからといって、その書類が本物だと証明できるわけではない。印影から印鑑を作ることは可能だろうし、大体の人は100円ショップ等で購入するので、押印に使ったのと同じ印鑑を手に入れることは難しくない。

ただ、押印には若干の注意がいる。印鑑に適度に朱肉を付け、印影が鮮明に写るように押さなければならない。その時に、書類の不備に気付くことがある。そういった不備を発見させる意味が、押印にはあるのだろう。

可能性の信頼

人に物を教えるとき、基本的にはその人が理解してくれる可能性を信じている。人間には本質的な頭の悪さ・良さのようなものはあまり無いのだろうとも信じている。

それでもどうも諦めたくなるときはある。それは人が理解することを拒否しているときだ。私にもそんなときはある。頭に靄がかかったようで、よく働かず、少し考えればわかりそうだけど、面倒なので放棄してしまう。

きっと、私が教えようとしていることに関連して今まで苦しいことがあったのだと思う。そんなときは時間をかけて人間の本来的な興味を回復させてあげるしかない。

どうやって催事に人を呼ぶか

催し物を行うとする。どうやって人を呼ぼうか。折込チラシか、掲示板か、電車に広告を出したらいいだろうか。

催し物当日、人が来てくれた。また来てほしい。どうやって開催を知らせようか。メールか、ハガキか。そしたらメールアドレスか住所を教えてもらおう。

催事を行う側にとっては切実だ。真面目に準備して来たのだから、より多くの人に来て欲しい。

参加する側にとっては、たまたま行った催事の主催者からメールなりハガキなりが来るのは煩わしい。

おそらく、大半の催事は人伝ての宣伝だけで構わないのでは無いだろうか。情報がすぐに拡散する現代においては人間が処理できる以上の情報に煩わされることになる。真に参加する価値があるものは人伝てに伝わって来るものくらいなのだ。

食後の激しい運動は

食後に激しい運動をすると、それが終わった後に物凄く苦しむことになる。運動中は全く構わないのだが、止まった途端に顔から血の気が引いて倒れ込んでしまいたいような気分の悪さが襲う。それから腹痛がやって来る。

食事直後はまだ血糖値が上がっていないし、体の中の栄養は空っぽの状態だ。運動中は栄養をなんとか捻り出しているが、終わった途端に糖分がからだったことに気付く。そして、急激な運動で腸の運動が刺激され、急激な腹痛に繋がるのかもしれない。

親切は継続してこそ

親切は継続されてこそ意味がある。それは、その親切が信頼され、目標を達成することができるからだ。滅多に起こらず、緊急性を要する自体に対処する親切行為、例えば一般人が行う救急救命、は別だが。

親切は相手の必要に応えるために行われる。相手の必要が満たされるまでは継続すべきだ。また、必要を抱えている相手が変わったとしても行うべきだろう。どれが公平というものだからだ。

逆に言えば、継続できない親切行為は丁寧に断るべきなのだろう。相手を安易に信頼させるべきでは無いし、こちらの心身の資源も限られている。一時の感情の高まりで親切を行うのは無責任でさえある。

メールって意外とストレスなのかも

いろんなメールマガジンを購読しすぎて、メールボックスがとっ散らかっている。雑多な題名が渾然一体としているのは見てて気分が悪くなる。

メールマガジンは購読するだけならタダだから、何も損することは無いと思っていたが、物理的なゴミが机に散乱するのとほぼ同じくらいのストレスを与えるものなのだとわかった。

教師は舌足らず

数学の先生が丁寧に教えてくれる。自分の解答より、より一般的な問題に対応できるような解法を朱書きしてくれることがある。長い時間をかければそれがより良い方法であることは分かるのだが、毎回そうするのも困難だ。先生にその説明を求めると、「そのほうがお徳だから」などとやや直感的な言い方をされる。

誰か、解法の特徴を教えてくれるAIを作ってくれないだろうか。それがあれば、いつでも気軽に数学の理解を進めることが可能になるのだが。